LOGIN紙の裏側に描かれていたのは、切り落とされた白狼の首を抱え、北塔の扉へ手を伸ばす黒い外套の人物だった。その指には、翼を広げた金色の竜をかたどる指輪がある。
ノクサル皇族だけが所持を許される紋章だと知った瞬間、エララの胸に浮かんだのは、犯人へ近づいたという喜びではなかった。
これをケイルへ見せれば、彼は皇族全員を疑わなければならなくなる。イゾルデへ見せれば、ルマが厳しい尋問を受けるかもしれない。だからといって隠せば、白狼を運び込んだ者を野放しにするだけでなく、自分を信じて絵を残した少女の勇気まで無駄にしてしまう。
「朝から難しいお顔をなさっていますね。せっかく謝罪を受け取ったのですから、最初くらいは素直に喜んではいかがですか」
リナは寝台脇へ湯の入った器を置き、エララの手から絵を受け取った。表側を見たときには目元を和らげていたものの、裏返した途端、その表情が引き締まる。
「これは、陛下の指輪と同じものですか」
第二十二話 朝、竜皇の腕の中で 黒い爪の先は、エララの喉元から指一本ほどの距離で止まっていた。 少しでも前へ動けば柔らかな皮膚を裂く。その事実を理解した身体が、頭で考えるより先に震え始める。呼吸をするたびに喉が爪先へ近づくような錯覚に陥り、エララは息を殺した。 黒竜の金色の瞳には、獲物を求める飢えと、決して傷つけまいとするケイルの意思が同時に浮かんでいる。 巨大な前脚は激しく震えていた。 止まっているのではない。ケイルが、自らの爪を必死に押しとどめているのだ。「ケイル」 エララは声を荒らげず、名前を呼んだ。 黒竜の喉から、苦しげなうなりが漏れる。牙の隙間に黒炎が集まり、熱い息がエララの髪を揺らした。「聞こえていますか。あなたは、私を傷つけていません」「逃げろ」 竜の声が、岩壁を震わせる。「右の鎖が切れました。約束どおり逃げますから、爪を引いてください。このままでは、私が動いた瞬間に触れてしまいます」「動くな。今、引く」「はい。待ちます」 エララは両手を見える位置に置き、足にも力を入れなかった。 下手に後退すれば、黒竜の狩猟本能を刺激する可能性がある。怖いからこそ、自分の判断で急に動くのではなく、言葉を交わす必要があった。 黒竜の爪が、ほんのわずかに後ろへ下がる。 その動きに抵抗するように、ケイルの胸から伸びる黒い糸が強く引き絞られた。黒竜の前脚が再びエララへ近づき、爪先が喉へ触れかける。 金色の誓紋が熱を放った。「私はここにいます。あなたを置いて、勝手には動きません」「逃げると言っただろう」「爪が離れたら逃げます。今動けば危険です」「俺は、もう止められない」「今も止めています」
第二十一話 怪物に触れる許可「――エルアリア」 黒竜の口からこぼれた名が、地下牢の岩壁へ低く響いた。 聞き覚えのない名だった。けれど、胸に現れた金色の誓紋は、自分が呼ばれたことを疑う余地もないほど強く脈打っている。 エララは黒鉄の扉を背にしたまま、鎖につながれた竜を見つめた。「今、私を何と呼んだのですか」「エルアリア」「それは誰の名前です」「お前だ」 ケイルの声は、人の言葉を無理やり竜の喉から押し出したように低く歪んでいた。それでも彼の意思は残っている。意味のない唸りではなく、エララへ伝えようとして発せられた言葉だった。「私の名は、エララです。婚礼では、母から与えられた名も含めて、エララ・ルーナ・ヴェイルと申し上げました」「知っている」「では、エルアリアという名を、どこで知ったのですか。母の指輪に刻まれていたのでしょうか。それとも、竜族の記録に残っているのですか」「知らない」「知らないのに、私の名だと分かるのですか」「お前の血が、そう呼べと言った」 黒竜がわずかに頭を動かす。太い首へつながれた鎖が床を擦り、耳を塞ぎたくなるような金属音が響いた。 エララの身体は反射的に強張った。黒い鱗に覆われた竜は、立ち上がれば天井へ背が届くほど巨大で、前脚の爪だけでも人間の腕より長い。牙の隙間から漏れる炎が床の石を赤く焼き、呼吸をするたび、熱と血の匂いが押し寄せてくる。 怖くないはずがなかった。 婚礼で話したように、彼の中にケイルがいることは理解している。それでも、自分を一口で噛み砕ける生き物を前にして平然としていられるほど、人の本能は聞き分けがよくない。「震えている」 黒竜が言った。「はい。怖いので」「ならば、出ていけ」
第二十話 鎖につながれた皇帝 ケイルの背中から噴き上がった黒炎が、天竜の間の天井へ届いた。 翼を広げるように燃え上がった炎は、銀細工の竜を包み込み、華やかな祝宴会場を一瞬で灼熱の牢獄へ変える。悲鳴を上げた貴族たちが出口へ殺到し、倒れた椅子や割れた食器が床へ散らばった。「走ってはなりません。扉は三つあります。身分に関係なく、近い場所から順番に退出なさい!」 イゾルデの声が響く。 息子が黒炎に呑まれかけているにもかかわらず、皇太后は取り乱さなかった。護衛へ指示を出し、楽団員や給仕たちまで逃げ遅れないよう、貴族を壁際へ誘導させている。 それでも、命じる声の合間に一度だけケイルへ向けられた視線には、母親としての恐怖が隠しきれずに浮かんでいた。「陛下、こちらへ」 近衛兵たちが黒い外套を広げ、ケイルを取り囲んだ。 外套には銀色の呪文が刺繍されており、黒炎に触れても燃えない。兵士たちは慣れた動きでケイルの姿を人々から隠し、祝宴会場の奥にある通路へ誘導しようとする。 しかし、ケイルの足は床へ縫い止められたように動かなかった。 彼は炎の向こうから、エララだけを見ている。 金色だった瞳は中心から黒く濁り、瞳孔は獲物を見つけた獣のように細くなっていた。その表情には苦痛と恐怖が浮かんでいるのに、誓紋を通して伝わってくるものは、それだけではない。 飢えだった。 ケイルの意思とは無関係に、彼の内側にいる黒竜が、エララの血と鼓動を求めている。「エララ、下がれ」 唇から押し出された声は、まだ人間のものだった。「近衛兵と一緒に北塔へ戻れ。今夜は部屋から出るな」「その前に、月蝕がなぜ予定より早く始まったのか説明してください。本来は三日後だったのでしょう」「今、話している余裕はない」「三日後なら、あなたは準備をしてい
第十九話 夫婦で踊る理由 始祖の祭殿を出てから祝宴会場へ向かうまで、ケイルは一度も口を開かなかった。 彼はエララの手を離さず、歩調も婚礼衣装の裾に合わせている。けれど、頬へ触れた口づけについて問い返すこともなければ、金色の誓紋や始祖竜の石棺について話すこともない。普段の彼なら沈黙していても不機嫌なのか考え込んでいるのか見分けられたが、今は驚くほど表情が乏しかった。「怒っているのですか」 長い回廊を半分ほど進んだところで、エララは我慢できずに尋ねた。「何に対してだ」「私が、勝手に頬へ口づけたことです」「怒ってはいない」「それなら、困っているのですか」「困ってもいない」「では、なぜ黙っているのです」「何を言えばいいのか分からない」 戦場では何千もの兵に命令を下し、宮廷では気難しい貴族たちを短い言葉で従わせる男が、頬へ一度口づけられただけで何を言えばよいか分からなくなっている。その事実が妙に可笑しく、同時に、エララの胸をくすぐったくさせた。「感想を言えばよいのではありませんか」「感想とは、どのようなものだ」「私に聞かないでください。口づけられたのは、あなたでしょう」「温かかった」「もっとほかにありませんか」「短かった」「もう少し言い方を考えてください」「もう一度してほしい」「それは感想ではなく要求です」「ならば、どのように頼めばいい」「それもご自分で考えてください。私は先ほど、お願いの仕方を考えてから尋ねてほしいと申し上げました」「考えた結果、もう一度してほしいと頼んだ」「考える時間が短すぎます」「要求が単純だから、長く考える必要がない」
第十八話 口づけの前に 始祖竜の石棺が、内側から大きな音を立てた。 祭殿を囲んでいた貴族たちが一斉に後ずさり、何人かは腰の剣へ手を伸ばした。しかし、死者を収めた石棺から現れる何かに剣が通用するのか分からないらしく、抜き放つまでには至らない。 エララの手を握るケイルの指に力がこもった。守らなければならない危険がどこにあるのか判断できないため、彼はエララを自分の背後へ隠すこともせず、ただ、いつでも抱き寄せられる距離を保っている。 重い石の擦れる音とともに、石棺の蓋がわずかに持ち上がった。 中から溢れ出したのは死者でも黒い炎でもなく、目を開けていられないほど眩い金色の光だった。光は祭殿の天井へ昇り、翼を広げた巨大な竜の姿を描いたあと、エララとケイルの胸に現れた誓紋へ吸い込まれていく。 すべての光が消えると、石棺の蓋は何事もなかったように元の位置へ戻った。「今のは、何だったのですか」 エララが尋ねても、老司祭は答えなかった。答えを拒んでいるのではなく、自分でも理解できないのだろう。血の気を失った顔で始祖竜の石棺を見つめ、震える指を何度も組み直している。「始祖の間が開かれたのは、先帝陛下の即位以来、二十九年ぶりでございます。しかし、あのときは祭壇の炎が一度だけ高く燃えたにすぎません。石棺そのものが応じるなど、神殿に残る記録でも読んだことがございません」「記録にないことばかりではないか」 ケイルの声には苛立ちがにじんでいた。「金色の誓紋も、石棺の反応も、何一つ分からないまま、祖霊の奇跡だとでも言って民を納得させるつもりか」「軽々しく奇跡と断じることはできません。ただ、始祖竜が拒絶を示したのであれば、祭殿の炎は黒く燃え、婚姻を結ぼうとした者を外へ押し出します。今回の反応が拒絶ではなかったことだけは確かです」「では、祝福だったのですか」 エララが重ねて問うと、老司祭は長い沈黙の末に首を横へ振った。
第十七話 竜の婚礼 紙の裏側に描かれていたのは、切り落とされた白狼の首を抱え、北塔の扉へ手を伸ばす黒い外套の人物だった。その指には、翼を広げた金色の竜をかたどる指輪がある。 ノクサル皇族だけが所持を許される紋章だと知った瞬間、エララの胸に浮かんだのは、犯人へ近づいたという喜びではなかった。 これをケイルへ見せれば、彼は皇族全員を疑わなければならなくなる。イゾルデへ見せれば、ルマが厳しい尋問を受けるかもしれない。だからといって隠せば、白狼を運び込んだ者を野放しにするだけでなく、自分を信じて絵を残した少女の勇気まで無駄にしてしまう。「朝から難しいお顔をなさっていますね。せっかく謝罪を受け取ったのですから、最初くらいは素直に喜んではいかがですか」 リナは寝台脇へ湯の入った器を置き、エララの手から絵を受け取った。表側を見たときには目元を和らげていたものの、裏返した途端、その表情が引き締まる。「これは、陛下の指輪と同じものですか」「形は似ているけれど、細部までは分からないわ。ルマがどれほど正確に描いたのかも分からないし、犯人の指にはめられていたのが本物だという保証もない。絵だけを根拠に、誰かを犯人扱いすることはできないわ」「けれど、黙っているわけにもいきませんね」「ええ。ケイルと皇太后陛下へ見せます。ただし、その前にルマが自分の意思で描いたものだと確かめたいの。誰かに描かされた可能性も、考えておかなければならないから」「また噛まれるかもしれませんよ」「今度は手を出さないわ」「昨日も最初はそのおつもりだったはずです。お嬢様は用心するとおっしゃりながら、目の前に傷ついた人がいると、ご自分から近づいていくのですから信用できません」「そんなに信用がないの?」「ございます。ただ、お嬢様がご自分の安全を最優先するという点だけは、まったく信用しておりません」 リナの言葉には遠慮がなかったが、その手はエララの右手を取り、包